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つれづれ

東日本大地震

被災の皆様にお見舞い申し上げるとともに、亡くなられた方々にご冥福をお祈り致します。

この日、いつものように昼寝から覚めて、今回受賞の直木賞作品を寝転んで読んでいました。
十階では何かにつけ揺れています。例えば大風の時も揺れています。それで、いつもの地震ではそんなに動揺しないのですが、今回は長く揺れていた事と次第に揺れが大きくなったため、これはヤバイかも知れないと、通路に出ました。ドアが開かなくなると言うからです。
事実、大風の日にドアが開けたとたんにもってゆかれ、ドアノブで外壁に穴は明くし、閉めたら今度は開かなくなり、消防署に来てもらうという苦い経験もあります。
消防車、救急車、警察署がセットで来る訳です。
それで消防署員が二人、窓から室内に入り開けて下さいました。

通路に出たのは十階は一人だけでした。九階以下からは人の声が聞こえますので、何人かは外に居るのでしょう。その内更に揺れが大きくなり、片スタンドの自転車が倒れた時にはビビリました。立っているのも不安でドアノブをしっかり握りしめていました。
けれど、十階の人は誰も居ないのだろうか?
隣の奥さんはお腹が大きく、その数日前の地震で怖かったと言っていたから、声をかけようかと思ったが、やめた。
揺れも落ち着いて、家に入ったら、滅茶苦茶になった部屋、棚が15cmも動いた部屋(そのままでは重くて元に戻せない)、CDが棚に沢山並べてある部屋は大丈夫だったし、一番心配した食器棚も無事だった。茶道具も釜や木製釣瓶の水指、籠花入れが落ちていたが、茶碗等は大丈夫だった。
落ちた物の中身は見ていないが、それぞれ箱に入っているので、大丈夫でしょう。
お風呂の水が揺れで溢れて、流し場に置いた洗濯物(籠にかけて干していた)がびしょびしょ。
薬缶が落ちて絨毯もびしょびしょ。

夕飯の仕度時間になり、今日はフライ物を予定していたが、余震が酷くこれは火を使うのは止めようと、スーパーに惣菜を買いに行った。
見事に売り切れ、漸くロースとんかつ二枚をゲットした。
家の者は渋谷から歩いて帰って来た。最初バスに乗ったらしいが、二停留所を1時間かかったらしく、降りて歩いたらしい。
ガスはマイコンが働いて止まっていた。隣もランプが点灯して止まっている事を示していた。考えた末に隣に点けてやろうと言いに行ったらご主人が出てきた。帰ったばかりだとの事。奥さんは昨日、実家に帰った事。
車が渋滞している事など話した。先ずは安心した。
その後、仙台の甥や実家に電話したが、携帯も固定電話も全く用を為さなかった。
実家の甥の娘にメールして漸く仙台の甥も無事である事が確認出来たのは翌朝だった。

1964年(昭和39年)6月16日13時1分41秒に発生の新潟地震を思い出した。
私の通う鶴岡市内の学校は、この日何かの行事でお昼で終って帰る途中だった。
奥羽線の陸橋を下る時だった。頭が変になったと思った。自転車を降りて蹲った。
この近くの学校の生徒が校庭に飛び出してきた事で地震と分かった。それからが地獄絵だった。
電柱が地面に着くほどに揺れ、地面からは砂や水が噴出した。川の水も揺れて溢れていた。

急いで家に帰り、家族の無事を確認する間もなく、パン屋に走った。パンを全部買い占めた。
これは正解だった。何しろ家は壊れて、中に入れない。トラックで田圃の中に出て、この日はここで寝た。
当然煮炊きは出来なかった。その後、家がなおる迄、倉庫での生活だった。今は建て替えて昔の面影はない。

今回は津波による犠牲者が多かったが、新潟地震では地割れに挟まれて死んだ学生や煙突が折れて落ちて亡くなった方。新潟からは特急列車で2時間かかる地域でこの有様だった。

今日は地震から5日目。原発が酷い事態になった。
会社の子会社があって、毎月出張していた時に眺めていた処だ。
会社のみんなは無事だろうか。一人一人の顔を思い浮かべ、今は無事を祈るばかりだ。
by higashinuma | 2011-03-15 16:35 | 所感 | Comments(0)

茶道をとおして日々の流れをつづる

by higashinuma