2011年 10月 09日
ゆく秋の日
爽やかな気候で三連休の初日。
箱根辺りは良いだろうなぁ・・・温泉行きたいなぁ・・・夏の疲れか。
運動会の手伝いのために一人の生徒のお休みのみ。気合いを入れなきゃ!
秋明菊を唐銅(からかね)の鶴首花入に。
貴船菊とも言われ紅色が主流ですが、この頃は薄紅や八重もあります。
夕方凋みますが、朝になると綺麗に開花してくれます。
枝付が気になりますが、もともとこういう花なのでそのままに。
この季節好きな花の一つです。
干菓子は頂戴した四国ばいこう堂の和三盆。
口溶けが良く、ほっとする味わい。疲れた時のお助け物。
主菓子は亀屋陸奥の「松風」
家の者は美味しく無いと文句たらたら・・・この美味しさが分かるまでには茶の修行が未だ遠い(笑)
由緒正しいお菓子なのです。
元亀元年(西暦1570年)に始まり、11年間続いた織田信長と石山本願寺(現在の大阪城の地) の合戦のさなか、当家三代目大塚治右衛門春近が創製した品が兵糧の代わりとなり、 信長と和睦の後に顕如上人が
わすれては波のおとかとおもうなり まくらにちかき庭の松風
と、京都六条下間(しもつま)邸にて詠まれた歌から銘を賜り、 これが「松風」のはじまりだと伝わっています。 以来、石山籠城ゆかりの「松風」は、門徒さんにとっては本山へ 詣ったという証のようなものでした。歴史に抱かれるように生まれ、多くの人々に よって育まれた素朴な味と姿は、亀屋陸奥の代表銘菓として幾百年の時代を超えて 今も多くの人々に愛されております。
天正十九年(西暦1591年)に現在の地に本願寺が建立されると、亀屋陸奥も御用達の 御供物司として本願寺の寺内に移りました。
後に、江戸時代万治(西暦1660年)の頃、豊臣秀吉が聚楽第の池に浮かべて興じたという 檜造りの大きな亀を公家の柳原家を通じて手に入れ、正徳五年(西暦1715年) には三条大納言より陸奥の大掾の御宣旨を賜り、以後、双方にちなんで 亀屋陸奥と名乗るようになりました。
・・・・亀屋陸奥ホームページから
「松風」はお菓子の名前でもあり、松風と言えばこのような種類のお菓子で、亀屋陸奥以外にも「松風」で有名なお菓子屋が京都に数件あります。
また、松風と言えば茶室に滾る釜の湯の音を表現し、お茶とは切っても切れない所縁のお菓子です。
以前、このブログに書いた小説「松風の家」は宮尾登美子が、裏千家の江戸から明治を書かれたものです。
生徒に松風の音を聞いた事が無いと言われた。それは茶室の外での事。それで、田舎を思い出した。
私の田舎は三方を山に囲まれた平野ですが、日本海側は海に面した砂山に松が植えてある。そういう意味では四方を囲まれていると言うべきだろうか。その砂山は標高4・5百mの小高い山で海から平野までの間、何キロ位あるだろうか、ずっと砂山で、メロンや西瓜の栽培、その他農作物の栽培が盛んです。昔は我が家も土地を持っていて、森林地の他、畑地の方には、父は林檎や柿、桃、西瓜、メロン等を植えていた。この山に連れて行って貰うのが楽しみだった。そこは殆どが松の山なので、一日中、松風と海鳴りの音が絶えなかった。畑地の方には井戸もあって、西瓜を冷やし、お昼の握り飯と祖母の頃にはみそ汁も作っていた。松の木陰での昼飯は楽しいものだった。
今、思えば癒しの音と思える。子供ながら不思議と気分が落ち着くのだった。
また、大きな河の河口では秋になると、子供(小学校高学年や中学生)たちだけで「芋煮会」等をしたものでした。石で竈を造り、松葉や小枝を拾い集め、持ち寄った芋、肉、野菜で芋煮鍋を作って、おにぎり等をほおばったものでした。今も続いているのだろうか。ここでも、松風に包まれていた。
この辺りだと規模は小さいし、松も高くはないけれど、茅ヶ崎辺りの雰囲気だろうか。
砂糖黍畑は「ざわわざわわ」と表現しているが松風はどう表現して良いのだろう・・・・。
箱根辺りは良いだろうなぁ・・・温泉行きたいなぁ・・・夏の疲れか。
運動会の手伝いのために一人の生徒のお休みのみ。気合いを入れなきゃ!
秋明菊を唐銅(からかね)の鶴首花入に。
貴船菊とも言われ紅色が主流ですが、この頃は薄紅や八重もあります。
夕方凋みますが、朝になると綺麗に開花してくれます。
枝付が気になりますが、もともとこういう花なのでそのままに。
この季節好きな花の一つです。
干菓子は頂戴した四国ばいこう堂の和三盆。
口溶けが良く、ほっとする味わい。疲れた時のお助け物。
主菓子は亀屋陸奥の「松風」
家の者は美味しく無いと文句たらたら・・・この美味しさが分かるまでには茶の修行が未だ遠い(笑)
由緒正しいお菓子なのです。
元亀元年(西暦1570年)に始まり、11年間続いた織田信長と石山本願寺(現在の大阪城の地) の合戦のさなか、当家三代目大塚治右衛門春近が創製した品が兵糧の代わりとなり、 信長と和睦の後に顕如上人が
わすれては波のおとかとおもうなり まくらにちかき庭の松風
と、京都六条下間(しもつま)邸にて詠まれた歌から銘を賜り、 これが「松風」のはじまりだと伝わっています。 以来、石山籠城ゆかりの「松風」は、門徒さんにとっては本山へ 詣ったという証のようなものでした。歴史に抱かれるように生まれ、多くの人々に よって育まれた素朴な味と姿は、亀屋陸奥の代表銘菓として幾百年の時代を超えて 今も多くの人々に愛されております。
天正十九年(西暦1591年)に現在の地に本願寺が建立されると、亀屋陸奥も御用達の 御供物司として本願寺の寺内に移りました。
後に、江戸時代万治(西暦1660年)の頃、豊臣秀吉が聚楽第の池に浮かべて興じたという 檜造りの大きな亀を公家の柳原家を通じて手に入れ、正徳五年(西暦1715年) には三条大納言より陸奥の大掾の御宣旨を賜り、以後、双方にちなんで 亀屋陸奥と名乗るようになりました。
・・・・亀屋陸奥ホームページから
「松風」はお菓子の名前でもあり、松風と言えばこのような種類のお菓子で、亀屋陸奥以外にも「松風」で有名なお菓子屋が京都に数件あります。
また、松風と言えば茶室に滾る釜の湯の音を表現し、お茶とは切っても切れない所縁のお菓子です。
以前、このブログに書いた小説「松風の家」は宮尾登美子が、裏千家の江戸から明治を書かれたものです。
生徒に松風の音を聞いた事が無いと言われた。それは茶室の外での事。それで、田舎を思い出した。
私の田舎は三方を山に囲まれた平野ですが、日本海側は海に面した砂山に松が植えてある。そういう意味では四方を囲まれていると言うべきだろうか。その砂山は標高4・5百mの小高い山で海から平野までの間、何キロ位あるだろうか、ずっと砂山で、メロンや西瓜の栽培、その他農作物の栽培が盛んです。昔は我が家も土地を持っていて、森林地の他、畑地の方には、父は林檎や柿、桃、西瓜、メロン等を植えていた。この山に連れて行って貰うのが楽しみだった。そこは殆どが松の山なので、一日中、松風と海鳴りの音が絶えなかった。畑地の方には井戸もあって、西瓜を冷やし、お昼の握り飯と祖母の頃にはみそ汁も作っていた。松の木陰での昼飯は楽しいものだった。
今、思えば癒しの音と思える。子供ながら不思議と気分が落ち着くのだった。
また、大きな河の河口では秋になると、子供(小学校高学年や中学生)たちだけで「芋煮会」等をしたものでした。石で竈を造り、松葉や小枝を拾い集め、持ち寄った芋、肉、野菜で芋煮鍋を作って、おにぎり等をほおばったものでした。今も続いているのだろうか。ここでも、松風に包まれていた。
この辺りだと規模は小さいし、松も高くはないけれど、茅ヶ崎辺りの雰囲気だろうか。
砂糖黍畑は「ざわわざわわ」と表現しているが松風はどう表現して良いのだろう・・・・。
by higashinuma
| 2011-10-09 09:38
| 茶道
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