人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

つれづれ

ゆく秋の日

爽やかな気候で三連休の初日。
箱根辺りは良いだろうなぁ・・・温泉行きたいなぁ・・・夏の疲れか。
運動会の手伝いのために一人の生徒のお休みのみ。気合いを入れなきゃ!

ゆく秋の日_b0197486_9302717.jpg

秋明菊を唐銅(からかね)の鶴首花入に。
貴船菊とも言われ紅色が主流ですが、この頃は薄紅や八重もあります。
夕方凋みますが、朝になると綺麗に開花してくれます。
枝付が気になりますが、もともとこういう花なのでそのままに。
この季節好きな花の一つです。

干菓子は頂戴した四国ばいこう堂の和三盆。
口溶けが良く、ほっとする味わい。疲れた時のお助け物。

ゆく秋の日_b0197486_9361034.jpg

主菓子は亀屋陸奥の「松風」
家の者は美味しく無いと文句たらたら・・・この美味しさが分かるまでには茶の修行が未だ遠い(笑)

由緒正しいお菓子なのです。
元亀元年(西暦1570年)に始まり、11年間続いた織田信長と石山本願寺(現在の大阪城の地) の合戦のさなか、当家三代目大塚治右衛門春近が創製した品が兵糧の代わりとなり、 信長と和睦の後に顕如上人が

わすれては波のおとかとおもうなり まくらにちかき庭の松風

と、京都六条下間(しもつま)邸にて詠まれた歌から銘を賜り、 これが「松風」のはじまりだと伝わっています。 以来、石山籠城ゆかりの「松風」は、門徒さんにとっては本山へ 詣ったという証のようなものでした。歴史に抱かれるように生まれ、多くの人々に よって育まれた素朴な味と姿は、亀屋陸奥の代表銘菓として幾百年の時代を超えて 今も多くの人々に愛されております。

天正十九年(西暦1591年)に現在の地に本願寺が建立されると、亀屋陸奥も御用達の 御供物司として本願寺の寺内に移りました。
後に、江戸時代万治(西暦1660年)の頃、豊臣秀吉が聚楽第の池に浮かべて興じたという 檜造りの大きな亀を公家の柳原家を通じて手に入れ、正徳五年(西暦1715年) には三条大納言より陸奥の大掾の御宣旨を賜り、以後、双方にちなんで 亀屋陸奥と名乗るようになりました。
・・・・亀屋陸奥ホームページから

「松風」はお菓子の名前でもあり、松風と言えばこのような種類のお菓子で、亀屋陸奥以外にも「松風」で有名なお菓子屋が京都に数件あります。
また、松風と言えば茶室に滾る釜の湯の音を表現し、お茶とは切っても切れない所縁のお菓子です。
以前、このブログに書いた小説「松風の家」は宮尾登美子が、裏千家の江戸から明治を書かれたものです。

生徒に松風の音を聞いた事が無いと言われた。それは茶室の外での事。それで、田舎を思い出した。

私の田舎は三方を山に囲まれた平野ですが、日本海側は海に面した砂山に松が植えてある。そういう意味では四方を囲まれていると言うべきだろうか。その砂山は標高4・5百mの小高い山で海から平野までの間、何キロ位あるだろうか、ずっと砂山で、メロンや西瓜の栽培、その他農作物の栽培が盛んです。昔は我が家も土地を持っていて、森林地の他、畑地の方には、父は林檎や柿、桃、西瓜、メロン等を植えていた。この山に連れて行って貰うのが楽しみだった。そこは殆どが松の山なので、一日中、松風と海鳴りの音が絶えなかった。畑地の方には井戸もあって、西瓜を冷やし、お昼の握り飯と祖母の頃にはみそ汁も作っていた。松の木陰での昼飯は楽しいものだった。
今、思えば癒しの音と思える。子供ながら不思議と気分が落ち着くのだった。

また、大きな河の河口では秋になると、子供(小学校高学年や中学生)たちだけで「芋煮会」等をしたものでした。石で竈を造り、松葉や小枝を拾い集め、持ち寄った芋、肉、野菜で芋煮鍋を作って、おにぎり等をほおばったものでした。今も続いているのだろうか。ここでも、松風に包まれていた。
この辺りだと規模は小さいし、松も高くはないけれど、茅ヶ崎辺りの雰囲気だろうか。

砂糖黍畑は「ざわわざわわ」と表現しているが松風はどう表現して良いのだろう・・・・。
by higashinuma | 2011-10-09 09:38 | 茶道 | Comments(0)

茶道をとおして日々の流れをつづる

by higashinuma