カテゴリ:短歌( 4 )

勉強会

27年3月27日 金曜日 晴 予報では5月頃の陽気になるとか

裏千家茶道では(他の流派の事は存じ上げない)花月の式と言う5人で行う修練科目がある。
江戸時代中頃に茶道人口が増えて云々と聞いているが、同時に五人で稽古するので確かに効果的です。
しかも、裏千家一燈斎を始め三千家と大徳寺の和尚、塗師中村宗哲、後江戸で茶道を広める川上関雪等で修練の工夫をされました。その後は歴代宗匠が何科目か考案され、その内容は宗家の中で修業し、宗匠が他界後に公表される事になって今に至っています。従って沢山の科目があります。

その中に和歌を作ると言う二科目あり、有る程度慣れて居ないとその場で作るには時間上も無理があります。それで、和歌を作る事と毛筆を使う勉強会を次の日曜日から月に一回程度開く事にしました。
その二科目は香付花月と唱和の式です。
香付花月は香銘を和歌にし、奉書に連座で書きます。唱和の式では花寄せがあり、各自が自分で入れた花を和歌にして短冊に書きます。
和歌と決まっている訳では無く、俳句でも、今でしたら短歌、漢詩でも良いとされます。

それに併せて古文の解読をして、旧かなや変体かなも勉強の予定です。
時間と場所が限られているので、月二度の事もあり得ますが先ずはやって見ない事には分からない。

短歌と言えば始めたのは小学生の頃です。国語の先生に褒められた事で今まで続くとは思いも寄らない。
長いこと作って、短歌の内容の変遷みたいな事も多々あり、私はどちらかと言うと現代風の意味の分からない短歌は苦手ですが、それが主流となっていて、偉いさんが称賛する。大きな結社(短歌を作る団体)に所属するとそれらがとても煩わしいと思う事もある。逆にそれらに属さないでは取り上げられる事は無い。独学でも良いのですが、結社の風に合わないと大勢に埋もれてしまう。朝日新聞等公募に投稿して自分を測る事も良いと思う。

漸く桜が咲き始めましたが、何故か今年の桜は感慨が無い。
桜の短歌をと思うけれど古から多くの歌(短歌、和歌)が詠まれて、それらを超すのは難しい。
好きな歌も沢山ある。
毎日必ず詠むと言う人も居るらしいが、私は器用じゃない。なので、じっくりと熟成してから作ることとしたいと思う。

4日後にライトアップの予定あり紅注す蕾に寒き風吹く
先日の寒さを詠んでみましたが・・・
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27年3月27日今日の枝垂れ桜
この後ろは染井吉野

by higashinuma | 2015-03-27 08:00 | 短歌 | Comments(0)

前川佐美雄

8月28日 エアコンのない就寝にも慣れてきた気がする。
丑三つ時の無風状態に陥る時間も目覚めずに済んだ。
しかし、朝は日の出からの太陽が若干短いカーテンの裾より照りつけ、暑いのと眩しいので目が覚めた。
6時40分位。後少し眠たい。カーテンの長さは多分標準。サッシの枠や障子の下地板で普通なら完全に灯りを閉ざすのだが、全開の窓。その隙間に何か置いては風が通らない。

私の所属する会とは異なるけれど、日本歌人と言う前川佐美雄主宰の会に何度かお邪魔した事がある。
ご縁で前川佐美雄、夫人の前川緑、ご子息の前川佐重郎も存じ上げてはいるが、前川佐美雄が亡くなって以後はお会いする機会も無くなって久しい。
奥床しいと言うか品のあるお人でした。

前川佐美雄(1903~1990)は歌一筋を生活基盤としてきたと聞く。
与謝野晶子の活躍していた時代とは違い、到底生活出来るような時代とは違う。歌人と言っても大かたは生活基盤を他に持っている。例えば教師であったり。

冗談かどうか知らないが、唯一仕事をしたのは学生アルバイトで遺体処理をした事と聞かされた。解剖した遺体を始末する仕事だったらしい。

五島美術館への下車駅「上野毛」駅で、改札に入る時に出て来られたご夫妻にお会いした。茅ヶ崎から五島美術館開催の「紫式部日記絵巻」展(確かそうだった?1985年秋。?)をご覧になりにいらしたのだ。前川佐美雄は82歳?奥様もそれに近い年齢とお見受けしたが、老齢の方がお二人で、この遠方までいらした事に深く感銘したものでした。温泉に行くとかでしたら未だ理解できる。
美を追求するとはこういう事なのだ。

駅から美術館までは分かりにくいので、美術館までご案内した。忘れられない思い出です。
後日、知人を通して、と言うか誰にも言って無かったが、分かったらしく、お礼の事付けがあった。

暑ければ、陽射しが強いと、遠いとか、色々な理由をつけては家出もせずに、1日何となく過ぎて行く日々。本当の本物には成れないのだと分かってはいるが・・・・。

by higashinuma | 2012-08-28 08:15 | 短歌 | Comments(0)

うたの家

8月27日 もう何日雨が降って無いんだろう?
地表は乾き熱を持つ。今日も我が家は33℃。

昨夜BSNHKで「うたの家」をドラマともドキュメンタリーともつかない放映があった。
私は途中から観た。
河野裕子と永田和宏夫妻それに永田淳、永田紅の子供たち全員歌人である。

私は歌の世界の末席に連なる者として、河野裕子は早くから知っていた。
その歌のどれもが輝き魅了された。
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若き日の永田和宏と河野裕子
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そして平成22年夏乳癌の転移で64歳で亡くなった。
最後には後述筆記で歌を作る。

「手を述べてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」辞世。

これほど多くの相聞歌を残した歌人、万葉集に載るような歌(身の内からほとぼり出る)を残した歌人は居ないだろう。
そして、愛する家族に看取られ静かに旅立ったようです。

同じ病気を持って奔放にこの世を走り抜けた歌人が居る。
中条ふみ子の名前は忘れ去られようとしているのではなかろうか。

「失ひし我の乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ」

歌集も「乳房喪失」
当時、映画化されたらしい。
4人の子をもうけて離婚し、入院中の医師との恋、年下の学生との恋等々次々と愛の遍歴を重ね、渡辺淳一の小説「冬の花火」を書かしめた。
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昭和29年32歳の若さでこの世を去る。最後には「死にたくない」の言葉を残して。

一方、乳房を取った後に荒木経惟(アラーキー)に依願してヌードと歌を載せた写真歌集「乳房花なり」を出版した歌人も居る。
宮田美乃里。
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「わたくしを批判するならご自由にならば自分も脱いでみなさい」

宮田美乃里もテレビで紹介されたらしいが私は知らない。平成17年35歳没。

昨夜のテレビを観ながら、特別な宿命を負って一世を精一杯生き抜いた歌人の生を思ったのでした。

             写真は全てネットから戴きました。

by higashinuma | 2012-08-27 15:23 | 短歌 | Comments(0)

歌が出来ない・・

今日は寒かったですね。十一月半ばの気温とか。

短歌の原稿締め切りは22日。毎月、間に合わせで提出。毎日一首を作り、それを推敲して十首を提出するのが理想だけれど、未だ一度として完遂した事は無い。
なんてブログに書いてどうするんだろう・・・・。

「夏の空秋空となり本堂の廂に近く無患子(ムクロジ)太る」

昨日「歌集を見て、随分海外に行って居られるのね」と言われた。
「短歌の取材です」なんて応えはかなり気取った言い方。「あんた何者!」と、叱られそうです。
確かに行き詰まると気分転換に海外旅行にも出かけますが、ただの観光旅行なのです。

先にあげた歌は今月の提出の中の一首。
これは深大寺に行っての事です。我が家からは自転車で野川沿いに一時間もかからずに行かれます。
本堂の横に無患子の大木があり、沢山の実をつけています。前ブログ「水辺」での写真アップしています。
短歌には関係なく、気分転換に出かけます。「ゲゲゲの女房」で更に人気を増し、そんなに参道に店があるわけでもないけれど、深大寺そばを求めて、或いは裏にある神代植物園等の散策に日曜祭日は凄く混雑しています。

近くにこのような環境がある事はある意味幸せです。
野川も河川敷は自然が多く、細い流れながらも一級河川との事です。このまま溯り源流とされる国分寺迄行った事がありますが(理由はあいつの自転車を取りに学芸大学に行った)なかなか良いサイクリングであった。ところどころ美術館や天文台、都立野川公園、調布飛行場等々見どころも多い。
下流では二子玉川近くで多摩川に合流しているが、こちらも次太夫掘等自然公園がある。また、この川から少し外れると、畑があったりするので、気分転換にはとても良い処だ。
これだけの条件が整っていながら歌が出来ない。

一日家に籠っていては頭がすぐにボウとしてしまう。
正岡子規は脊髄カリエスの病床から名歌を生み出し、アララギ派の基を築いたとされる。

「甕にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」

子規の代表歌の一つとされるこの歌も病床からの詠まれたとされる。
テレビドラマになった「坂の上の雲」を観ていると、子規の様子が痛いほど分かる。
果たして、私にはこのような芸当が出来るであろうか。
何をやっても中途半端から、広く浅くから、ちょっとずつ改善しよう。

今朝、上の記事を書いていましたが、夕方「坂の上の雲」放映していました。
子規の背中の病根も画像が出てました。脊髄に結核菌が付いて骨が腐敗してゆく病気です。腐敗した膿が皮膚を破って背中(腰)から出てくるのです。根岸の家で妹が手当しますが、痛ましい限りでした。

実は私も同じ病気を患っていました。六歳位の頃です。子規のように皮膚が破れる前に治療しているのですが、膿は太股の内側から注射器で取り除いたように記憶しています。だから子規みたいに苦しい思いは無かったですが、外に遊びに出る事もありませんでした。
今のように自然体で暮らせる事が、医師も奇跡のように言っていたようです。
子規とは時代も変わり、結核の投薬も格段の進歩があったのも幸いでした。
この事は、詳細は無いですが、第一歌集あとがきにも書いています。

根岸の家は今も保存されていて、付近には江戸時代からの豆腐料理屋「笹の雪」や書道美術館、少し離れますが朝倉彫塑館、羽二重団子屋等々あり下町の散策をお勧めします。

by higashinuma | 2011-10-19 20:46 | 短歌 | Comments(0)