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つれづれ

宗家の年忌

6月4日 火曜日 晴 朝から強い陽射しです

宗家の年忌参詣案内があり、一番近いのは「精中、圓能、無限忌」で7月5日です。

さて、これらの宗匠のお名前はお分かりですか?
精中は玄々斎精中宗室で十一代目の宗匠で1877年7月11日68歳没
圓能は圓能斎鉄中宗室 十三代目の宗匠で1924年8月5日53歳没
無限は無限斎硯叟宗室 十四代目の宗匠で1964年9月7日に北海道で72歳で亡くなられました。
そのため宗家では7月5日に合祀されておられるようです。

結構分かりにくいのは、普段は玄々斎でお稽古しますが、精中とは何代目の宗匠?圓能は普段でも圓能斎と言われます、そして淡々斎と稽古していたのに、いつの間にか最近では無限斎になりました。こちらも私などは長い事淡々斎で稽古していましたので、何代目でしたか?と言った感じです。

何故そのようになさったかは知る由も有りませんが、私の単細胞では、其々に名前(号)を贈られた方を尊敬しての事ではないかと思われます。
玄々斎は資料が乏しいですが、最初は23歳頃まで千玄室虚白斎と名乗っておられました。その後玄々斎と名乗られます。精中の号は50歳頃に九条尚忠関白に戴いておられます。
圓能斎は北白川宮能久親王、鉄中は小松宮彰仁親王。そして無限斎は大徳寺圓山伝衣老師、淡々斎は母堂の縁戚である九鬼隆一男爵に戴いておられます。

その宗匠の交流がどのようであったか、そして当時はどういう社会状況であったか興味深いです。
玄々斎の時代は江戸から明治への転換期で統幕尊王の嵐のような時代な訳です。
「八重の桜」の八重さんが今は川崎庄之助に嫁いで、会津で頑張っていた頃です。
そして、その嵐が収まり明治政府になって廃藩置県になると、藩は財政難になり、茶道なんかはやっている状況では無くなり、裏千家は没落の一途を辿り、圓能斎は東京に遷都されるに従い、東京に出て普及に努め
やがて京都に戻り、新妻襄に嫁いだ八重さんと出会うのです。
淡々斎も又、漸く取り戻した平安もつかの間、大戦の余波を受けて大変な時代を過ごされたと思います。

今回も文字だけになりましたので、最後は〆で、秘蔵品を公開します^^;
と言うのは、私の稽古時代のノートです。
昭和53年頃の物です。36年も昔!生徒の半数は生まれて無いか・・・・・。
宗家の年忌_b0197486_9115393.jpg

稽古をつけて戴いた科目。当日の花。お菓子。茶杓の銘(私が考えた銘)。注意された事。他には軸等も書いています。
仕事の帰りの夜稽古でした。が、この日だけでは無く、月3回、日に3科目も稽古して戴きました。火の始末から全部片付けが終わって、気が付いたら23時になっていたと言う時もありました。私は18時頃に伺っていたように思います。5人以上の生徒は目が届かないと言われ別の日に稽古していました。

今は夜の生徒が多い時で5人位でしょうか・・・それでも一人一科目か、早く見えた方は二科目。やはり、準備と片付けを要領よく(手抜きでは無い)する事から始めましょう。私に似たのか、何気にのんびりしているように思います。
Commented by ゲン at 2013-06-04 10:34 x
なんだか覚えられないです!
Commented by higashinuma at 2013-06-05 08:36
宗匠の名前(号)が誰に贈られたか迄覚えるのは大変です!でも、知っていて損は無いかも。例えば、どのような交流があったかとか、当時の社会状況を知るのも興味深いではないですか。
by higashinuma | 2013-06-04 08:44 | 茶道 | Comments(2)

茶道をとおして日々の流れをつづる

by higashinuma