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つれづれ

筆記試験  係り合い

27年7月18日土曜日 雲が多い晴 28.8℃ 凄い風が吹いているが蒸し暑い

筆記試験で全員回答出来ていない問題があった。
吉野太夫と同時代の人はの設問・・・正答は宮本武蔵ですが・・・実は吉野太夫は名前を継ぐため安土桃山時代から江戸中期まで10人位居るそうですが、一般にはその名を明国まで知らしめたと言う二代目吉野太夫を指します。
茶道の筆記試験なのに何で吉野太夫がと思われるでしょうが、茶道道具にも名前を取り上げられています。
例えば
吉野間道・・・見受けした灰屋紹益が送ったとされる打ち掛け?の意匠が裂地として取り上げられています。
吉野棚・・・・・吉野太夫は灰屋紹益の正妻となった後に若くして亡くなりますが、吉野を偲び灰屋紹益が建てたとされる遺芳庵を大正11年に高台寺に移築し、茶会を行った時に円能斎が遺芳庵の丸窓(吉野窓)の意匠を取り入れて好まれた棚です。

名前は知っていても、どういう時代に生きた人かは知られていない。
吉野太夫 慶長11年(1606年)~寛永20年(1643年)
宮本武蔵 天正12年(1584年)~正保2年 (1645年)

吉川英治の「宮本武蔵」の中には本阿弥光悦と吉野太夫、宮本武蔵の係わりが描かれていますが、時代を同じにする著名人であれば、実際にあった話しとしてもおかしくは無いだろうと思う。
本阿弥光悦 永禄元年(1558年)~寛永14年(1637年)

こうして時代を追ってみると人物の係りに事欠かない。
例えば吉野太夫に入れ込んだ一人に近衛信尋が居る。後陽成天皇の子で近衛信尹の養子となる。後水尾天皇の弟でもある。後陽成天皇は正親町天皇の子。町集であった利休は正親町天皇から拝領の居士号「利休」をもって金の茶室で禁中茶会を催す。後水尾天皇は徳川二代将軍秀忠の娘を后(東福門院)にする。修学院離宮を造営し、文化サロンをつくる。宗旦は東福門院と係わりがあります。

近衛信尋、近衛信尹辺りは良く短冊で茶掛とされる場合がありますので、せめて名前は覚えて欲しい。
表千家秘蔵の利休画像は長谷川等伯によるものですが、等伯と係わりが出るのは信尹の父、近衛前久です。

吉野太夫から話しが広がりましたが、関連を追って覚えると覚えやすいと思います。

休憩
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暑い日はカレー!(寒くてもカレーですね(笑))
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ゴーヤーチャンプルー・・・卵と鰹節抜きバージョン。つまり手抜き・・ですが美味しいです!
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弁当定番の取り合わせ
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豆腐の蟹卵

カレーの辛さとゴーヤーの苦さはなんとも言えない・・・ミスマッチの気もしないでもないが、食欲は出ます。
by higashinuma | 2015-07-18 09:00 | 茶道 | Comments(0)

茶道をとおして日々の流れをつづる

by higashinuma