2018年 11月 17日
茶道筆記試験 2
30年11月17日 土曜日 晴れ 22.8℃ 午後5時過ぎ
今日は若の提案で国立新美術館にボナール展を観に行き昼食はイタ飯予約済でその後はミッドタウン散策と言う事で、朝9時には出かけた。日曜日に行くと言われていたが、天気予報が変わって日曜日は雨降りそうとの事で土曜日に行く事になったもの。ボナールはジャポニズムがパリを風靡した時代。陶磁器を輸出する際に包んだ版画から日本の美術に驚嘆したとされこの時代はルノアール、ゴッホ等競って版画を参考に作品を発表します。ボナールも例外では無かった。日本かぶれのナビ派と言われていたとの事です。ただ、ルノアール等は印象派で、ナビ派はゴーギャンの指導のようです。レアリズムを否定し装飾的絵画を目指しています。
ボナール展を観て色彩の豊かさにそれを感じました。
イタ飯の話などは後にして今日は昨日の続きの筆記試験で難解だった問題を取り上げます。
大徳寺の開山は宗峰妙超です。大燈国師の方が分かり良いかも知れません。播磨の国赤松氏の家臣浦上氏の子として1282年に生まれ11歳で天台宗を学びますが、後、臨済宗に入ります。南浦紹明に参禅し、師が鎌倉建長寺に入ると従って鎌倉に入り1307年に印可を受けます。其の後、京都紫野に赤松氏の帰依を受けて堂を建立し、これが大徳寺の起原と言われます。花園天皇をはじめ貴族、大名、商人、文化人の帰依を受け、村田珠光が一休に参禅した事から武野紹鴎、利休等も参禅し、現在私たちが茶名に宗が付くのは宗峰妙超ここから戴くのです。
同志社所縁の宗匠は円能斎からです。東京から京都に帰った円能斎は同志社創立の新妻襄の妻である新妻八重の茶道の師となり、同志社にも指導に出向くのです。この辺りの話は大河ドラマ「八重の桜」にも描かれていました。
小庵と道安は同じ年齢と言われます。勉強会で説明したと思いましたが・・・小庵は利休の後妻宗恩の連れ子で道安は先妻の息子です。結果的に千家は小庵が利休の娘(外腹の子)亀女と結婚して引き継ぎ、その子が宗旦です。後妻と共に千家に入った小庵に道安の戸惑いも少なくないと思いますが、歴史の中ではそれは憶測でしかありません。
初代宮川香雲は三代宮川香斎の息子です。初代香斎の甥が香雲二代目です。宮川家は貞享年間(1684年~1687年)に始まりますが長男(京都)と次男(後横浜)に分かれ宮川家を継ぎます。横浜の宮川は四代目の四男で香山と名乗り横浜で活躍します。万国博や今我々が驚嘆するような作品はこの人の作品です。一方、京都の香斎は四代目あたりから千家のお好みも造るようになり、華麗で雅な作品を残します。家系では必ずしも長男が早世で代を継いだりしていないので複雑なのでここではここまでにしておきます。作品から私見では近年の香斎作品は仁清風と言いましょうか綺麗さび。香雲は華やかな作品と思います。この系統では小峠丹山(葛芳)が五代目香斎を叔父として茶陶で活躍されています。
一番の難問は堺の発展を導いた物でしょうか。三択として1.硝石の輸入2.唐物の輸入3.納屋貸付と書きましたが、1.を選んだ人はいませんでした。唐物輸入も津田宗及、今井宗久が豪商として上げられますが、彼らは特に信長時代に合戦が鉄砲に変わった事で弾薬の硝石が必須となり、競って商うようになります。宣教師により堺は日本で最も栄えた港湾都市と紹介されます。因みに利休の生家は魚問屋をしていたとされ、父田中与兵衛は商才に富み堺の有力な者が集まる納屋会合衆十人の一人としてあげられています。
今回は花等の問題はありません。点前の問題は殆どが正解しています。
「知って得する茶道のいろは」筒井紘一著では無いけれど、知らないより知ってる方が良い訳で茶会などでの会話力として活かせてくれたら嬉しいです。
我が家飯から
本当は若がすき焼き食べたいと肉を買って来ていたので、すき焼きと何か副菜をと思って作り始めた。豚ひき肉が量が多かったので二品作ったらすき焼きはどうでも良くなり明日にしましょうと言う訳です。
by higashinuma
| 2018-11-17 18:13
| 茶道
|
Comments(0)