2015年 10月 19日
瓦板の話
気持ちよく晴れた朝です。富士山は薄く見えている。
来週予定していた勉強会が都合悪い人が多く、昨日に変更した。それでもお休み二人、午前だけ午後だけの人も居た。
午前だけの人に3科目の内、どれが希望か聞いてやはりいつもの書写から始めた。
漢字かなまじりの日常手紙文11月分、たっぷり一時間はかかる。毎月、来月分の書写をするが早いもので1年も来月で終わりになる。
私は手首を机に付けないと書けないが、浮かして書いている生徒も居る。短冊などを書くには浮かして書くので、凄いなぁと感心。最初は書き方とか運筆の方法を説明していたが、今は殆ど自習。
いつもより早めに上げて、次は短歌
今回は時間が無かったのでその場で選をする。私も気が付くこと多い。
未だ、言いたい事を全部言ってしまい余情が無い。難しいが日本画で言う余白の部分が欲しい。それにリズムが。基本は5、7、5、7、7。でも、初めて数か月ではやむをえまい。
で、午前中は終わり、昼食、呈茶
午後は古文の勉強。
今日は呂宋助左衛門の茶壺の話とか、瓦板の話。
呂宋助左衛門は本では助右ヱ門となっていました。利休等と同じ堺の納屋衆で、スペイン治下のルソン島に渡り、1594年(文禄3年)に帰朝。このとき舶載したのは唐傘・蝋燭・麝香、そして50個の真壺であった(『太閤記』)が、これらを豊臣秀吉に献上した。この真壺とは当時隆盛の茶の湯で最も珍重された「ルソンの壺」であり、国内での売り捌きには豊臣秀吉が関り、利休が目利きをして、納屋助左衛門には巨額の利をもたらした。のち、豪勢な暮らしが石田三成の眼に留まり、日本を離れ呂宋に渡り、その後カンボジアに亡命し、カンボジアの王家の庇護のもと、対日貿易の監督役 をつとめたと伝えられる。この呂宋壺の事でも利休切腹の一つの要因のようです。尚、呂宋壺として渡来の茶壺は「松花」の銘で徳川美術館に重美で残ります。この壺は村田珠光の時代の物で天下三名物の一つと称され、他の二つは本能寺の変で一個は本能寺、一個は安土城で焼失したとされます。呂宋壺と言っても安南交趾物と同じく、造られたのは中国で詳しくは呂宋経由で渡来という事です。
瓦板は紹鴎の弟子の堺、薪屋三次と言う者が紹鴎を招いた茶会で真四角な大平瓦を使った事で、感に入って、それまでは長板に載せた風炉を、長板を切って小板として風炉を載せたと言う内容です。
偶々、今月の中置は鉄風炉で敷瓦を使ったので、そういういきさつだったのかと分かりやすかったようです。
尚、呂宋助左衛門が秀吉に献上した品に唐傘がありますが、竹台子は村田珠光が桐板の上下に唐傘の竹からヒントを得たと伝わります。呂宋壺と共に唐傘はずっと古くから伝わったという事です。この話から、じゃ、日本では傘が無かったの?と言う質問がありました。日本は笠です。菅笠を思い描いてください。笠と傘の字があるのも面白いです。日本の笠も歴史は古いようです。傘は雨と言うより日傘が先のようで、貴人の物でした。中国の故事で昔太陽が10個あったという話も併せてみると時代が違うけれど話としては面白い。
ただ、呂宋助左衛門がもたらした傘は「ろくろ」式で以降、今のような傘になったとのことです。